はじめに
フルマラソンやウルトラマラソンでは、「30kmを過ぎたあたりで突然脚が動かなくなった」「急に力が入らなくなった」という経験談をよく耳にします。
それまで順調だったにもかかわらず、急激にペースが落ち、足が前へ出なくなる。
中には寒気やめまい、集中力の低下を感じる人もいます。
このような状態は、一般的に「ハンガーノック」と呼ばれています。
「糖質不足が原因」と説明されることが多いですが、実際には身体の中でさまざまな変化が同時に起こっています。
今回は、ハンガーノックの正体を運動生理学の視点から解説し、なぜ体脂肪が大量にあるにもかかわらず走れなくなるのか、その理由についても詳しく見ていきます。
ハンガーノックとは何か
ハンガーノックとは、長時間の運動によって利用できる糖質が不足し、急激にパフォーマンスが低下する状態を指します。
マラソンでは「30kmの壁」の一因として語られることもありますが、実際にはフルマラソンだけでなく、ウルトラマラソンや長時間のトレイルランニング、自転車競技などでも起こります。
典型的な症状には次のようなものがあります。
| 主な症状 | 内容 |
|---|---|
| 急激な失速 | それまでのペースを維持できない |
| 脚が動かない | 力が入らず前へ進まない |
| 集中力低下 | 判断力や注意力が落ちる |
| 寒気・ふらつき | 低血糖に伴って現れることがある |
| 強い空腹感 | 糖質不足のサインとなる場合がある |
ただし、同じような症状でも脱水や熱中症など別の原因で起こる場合もあります。
そのため、「動けなくなった=すべてハンガーノック」とは言い切れません。
身体の中では何が起きているのか
ハンガーノックは、単純に「お腹が空いた状態」ではありません。
身体のエネルギー供給システム全体が限界に近づいた結果として起こります。
その流れを簡単にまとめると、次のようになります。
| 身体の変化 | 起こること |
|---|---|
| ① 筋グリコーゲンが減る | 筋肉が使いやすい燃料が減少する |
| ② 肝グリコーゲンも減る | 血糖値を維持しにくくなる |
| ③ 血糖値が低下する | 脳や筋肉へ送れるブドウ糖が不足する |
| ④ パフォーマンス低下 | 急激な失速や集中力低下が起こる |
つまり、ハンガーノックは筋肉だけの問題ではありません。
血糖値を維持する肝臓、エネルギーを利用する筋肉、そして大量のブドウ糖を必要とする脳が同時に影響を受けるため、全身のパフォーマンスが一気に低下してしまうのです。
筋グリコーゲンと肝グリコーゲンは役割が違う
これまでの記事でも紹介してきたように、グリコーゲンには大きく分けて二つあります。
| 種類 | 主な役割 |
|---|---|
| 筋グリコーゲン | 筋肉自身が運動するための燃料 |
| 肝グリコーゲン | 血糖値を維持し、全身へブドウ糖を供給する |
筋グリコーゲンが減少すると、筋肉は十分なエネルギーを作り出せなくなります。
さらに肝グリコーゲンまで減少すると、血糖値を維持することが難しくなり、脳にも十分なブドウ糖が届かなくなります。
その結果、身体だけでなく思考力や判断力まで低下し、ハンガーノック特有の症状につながります。
このことからも、ハンガーノックは「筋肉だけのガス欠」ではなく、「身体全体のエネルギー供給システムが限界に達した状態」と考える方が実態に近いでしょう。
なぜ体脂肪が大量にあるのに走れなくなるのか
ここで、多くのランナーが一度は抱く疑問があります。
「体脂肪には何万kcalものエネルギーがあるのに、なぜ途中で動けなくなるのだろう?」
実際、体脂肪10kgには約70,000kcal以上ものエネルギーが蓄えられています。
数字だけ見れば、フルマラソンを何十回も走れるほどのエネルギーです。
それでも人はハンガーノックを起こします。
その理由は、脂質だけでは高い運動強度を維持するだけのスピードでATP(身体が直接使うエネルギー)を作り出せないからです。
糖質は素早くATPを作り出せる「即戦力の燃料」です。
一方、脂質は大量に存在しますが、利用するまでに時間がかかり、多くの酸素も必要になります。
そのため、レースペースを維持するような運動では、糖質が不足すると脂質だけでは十分にエネルギー供給が追いつかなくなるのです。
この仕組みを理解すると、「脂肪燃焼=糖質不要」という考え方が誤解であることも見えてきます。
研究① Coyleら|グリコーゲンが減ると何が起こるのか
何をしたのか
Coyleらは、持久系競技者を対象に、長時間運動中の筋グリコーゲンの減少とパフォーマンスの関係を調べました。
被験者には一定の強度で自転車運動を続けてもらい、運動前後の筋グリコーゲン量や疲労の程度を測定しています。
何が分かったのか
運動時間が長くなるにつれて筋グリコーゲンは徐々に減少し、その残量が少なくなるほど運動を継続することが難しくなりました。
特に筋グリコーゲンが著しく低下すると、同じ運動強度を維持できず、パフォーマンスが大きく低下することが示されました。
これは、筋肉が素早くATPを作り出せなくなるためと考えられています。
記事との関連
ハンガーノックは突然起こるように感じますが、その背景では筋グリコーゲンが長時間かけて少しずつ減少しています。
つまり、「突然失速した」のではなく、身体の燃料タンクが少しずつ空になり、限界を超えた瞬間に症状として現れるのです。
研究② Jeukendrupら|糖質補給はハンガーノックを防げるのか
何をしたのか
Jeukendrupらは、持久系競技者を対象に、運動中の糖質補給量や糖質の種類を変えながら、持久力やパフォーマンスへの影響を比較しました。
ブドウ糖単独と、ブドウ糖・果糖を組み合わせた補給も比較しています。
何が分かったのか
運動中に適切な量の糖質を補給することで、血糖値や筋グリコーゲンの消耗を補い、長時間にわたってパフォーマンスを維持しやすくなることが示されました。
さらに、複数の糖質を組み合わせることで吸収効率が高まり、より多くの糖質を利用できることも報告されています。
記事との関連
現在のマラソンやウルトラマラソンで糖質補給が重視されているのは、このような研究結果が背景にあります。
ハンガーノックは完全に防げるとは限りませんが、適切な補給戦略によって発生リスクを大きく下げられる可能性があります。
研究③ Burkeら|現在の補給戦略
何をしたのか
Burkeらは、持久系競技における糖質補給について、多数の研究をまとめたレビューを発表しました。
競技時間や運動強度に応じた糖質摂取量や補給方法を総合的に評価しています。
何が分かったのか
競技時間が長くなるほど糖質補給の重要性は高くなり、特に90分を超える運動では計画的な補給が推奨されています。
また、近年ではブドウ糖と果糖を組み合わせた補給や、ガットトレーニングを取り入れた補給戦略が主流となっています。
記事との関連
ハンガーノック対策は、レース当日にジェルを飲むことだけではありません。
普段の糖質摂取、筋グリコーゲンの回復、ガットトレーニングなど、日頃からの準備も重要な要素になります。
補給してもすぐ回復しない理由
ハンガーノックになったとき、「ジェルを飲めばすぐ回復する」と思われがちです。
しかし実際には、補給してから身体で利用されるまでには時間がかかります。
| 流れ | 身体で起こること |
|---|---|
| ① 補給する | ジェルやスポーツドリンクを摂取する |
| ② 胃 | 胃から小腸へ送られる |
| ③ 小腸 | ブドウ糖や果糖が吸収される |
| ④ 血液 | 全身へ運ばれる |
| ⑤ 筋肉・脳 | エネルギーとして利用される |
この一連の流れには一定の時間が必要です。
そのため、ハンガーノックを起こしてから補給するよりも、「症状が出る前に補給する」ことが重要になります。
また、胃腸が糖質補給に慣れていないと吸収が追いつかず、胃の不快感や腹痛が起こることがあります。
そのため近年では、普段の練習から補給を繰り返し行い、胃腸を慣らしておく「ガットトレーニング」の重要性も注目されています。
レースでハンガーノックを防ぐには
ハンガーノックは、完全に防げるとは限りません。
しかし、発生リスクを下げるために実践できることがあります。
| タイミング | 対策 |
|---|---|
| 普段の食事 | 十分な糖質を摂り、筋グリコーゲンを回復させる |
| レース前日 | 極端な糖質制限を避け、必要な糖質を確保する |
| レース中 | 空腹を感じる前から計画的に補給する |
| 日頃の練習 | ガットトレーニングで補給に慣れておく |
「お腹が空いてから食べる」のではなく、「糖質が不足する前に補給する」という考え方が、長時間レースでは非常に重要になります。
僕の場合を考えてみる
現在の僕は、体重88kg前後でZone2を中心としたランニングを継続しています。
以前は「脂肪を燃やしたい」という意識から糖質を控えめにしていた時期がありました。
その頃は長時間走の後半になると脚が重く感じたり、翌日に疲労が強く残ったりすることが少なくありませんでした。
しかし、スポーツ栄養学について学び、お米を中心に糖質摂取量を増やしてからは、連日走っても以前ほど脚の重さを感じにくくなり、回復も早くなったと感じています。
もちろん、この変化が糖質だけによるものだと断定することはできません。
睡眠やトレーニング内容、体重の変化など、さまざまな要因が影響している可能性があります。
また、私は幸いにも典型的なハンガーノックを経験したことはありません。
そのため、ここで紹介した内容は研究結果に基づくものであり、私自身の体験とは明確に区別して考えるようにしています。
ただ一つ言えるのは、「脂肪を燃やすために糖質を減らす」という考え方から、「十分な糖質を摂ったうえで脂質代謝能力を高める」という考え方へ変えたことで、以前より安定して走れるようになったということです。
まとめ
ハンガーノックとは、単に「お腹が空いた状態」ではありません。
筋グリコーゲンや肝グリコーゲンが減少し、血糖値を維持することが難しくなった結果、筋肉だけでなく脳にも十分なエネルギーが届かなくなり、急激なパフォーマンス低下が起こる現象です。
体脂肪には膨大なエネルギーが蓄えられていますが、脂質だけではレースペースを維持するだけのスピードでATPを作り出すことはできません。
そのため、糖質と脂質は対立するものではなく、お互いを補い合いながら身体を動かしています。
ハンガーノックを予防するためには、レース当日のジェルだけでなく、普段の糖質摂取、筋グリコーゲンの回復、ガットトレーニング、そして計画的な補給戦略まで含めて考えることが重要です。
今回の記事で紹介した内容を理解すると、「糖質は悪者ではなく、長距離ランナーにとって欠かせない燃料」であることが分かるはずです。
まずは日々の食事から糖質を見直し、自分に合った補給方法を練習の中で試しながら、本番に備えていきましょう。
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参考文献
- Coyle EF, et al. Muscle glycogen utilization during prolonged strenuous exercise.
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